徳島阿波おどりツアー2024

羽田発着・会場徒歩圏内ホテル
1名様より・添乗員同行なし
※航空便により、旅行代金が大きく変わります

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松阪の博物館を回る

駅からのびるメインストリート

ベルタウンというらしい

水曜日だからか、閉店しているのかシャッターが閉まっている店が多い。

時計屋の時計が止まっているのはいかがなものか。

虎屋さん老舗だろうか。ういろうではなく、ういろ。スーパーにもういろは売っていた。ういろなんだろう。

伊勢名物の松阪店だった。なんと東京でも買える。
小麦粉を使用し、防腐剤を使用していないので賞味期限は翌日。
買わないでよかった。

味噌を売っているが、あくまで糀屋らしい。もやしも売っていたのだろうか…

松阪城跡に近づく。八重桜が満開。へそ曲がりなのでソメイヨシノより、八重桜のほうが好きだ。

横にある本居宣長宮に先に行く。

全国でも数少ない、氏子のいない神社らしい。だから賽銭を入れたり寄付をしてくれと書いてある。

本居宣長宮

脇の道を行くと、違う神社があった。

松阪神社

降りると松阪神社とわかった。

松阪城跡(松阪公園)を少し登ると、本居宣長記念館

庭にある赤い花がきれい。

西洋シャクナゲと書いてあった

入館料400円。財団法人鈴屋遺蹟保存会が運営管理する。

入り口をのぞむ

本居宣長はなにをした人だろう。国学者という記憶はある。

医者で、古事記を研究し、そこから日本を考えた人。

17歳のときに書いた日本地図がすごい。

川崎と神奈川の間の地名が不明、生麦か
基本的にこれですべて
賀茂真淵からの手紙

友だちの都へのぼりけるをおくりとて

賀茂真淵に師事していた。和歌を送ったが、つまらないと批評された内容。

医師としても信頼されていた人だった。この時代は往診が主で伊勢まで40キロ歩いて行ったこともあったそうだ。

いまでいうカルテ
地図のようなもの
44歳のときの自画像
訪問してきた人を記録したもの

父は商人であり、16歳に商売の勉強のために京都に行ったときの道中記。

外に出て旧宅へ

宣長が勉強していた三畳間。

松坂城跡につながる

天守閣跡

そもそも松阪城はどうしてなくなったか。廃藩置県で廃城になり、その後失火で二の丸が消失。最終的には売却されて解体。

カフェ(といってもお酒も充実)月見やぐら&a
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日本酒は店内メニューで一合1400円~なのでこの価格は半合以下だろう。

松阪市立歴史民俗資料館

入館料は値上げしたばかりの150円。

松阪は日本三大商人の町だそうで、松阪もめん、かすりが名産だった。
大坂商人、近江商人、そして伊勢商人。今や巨大企業のイオンの創業者は四日市出身で伊勢商人の影響を受けている。

松阪もめん

紋帳。生地の見本帳だ。現在でも使われているはず。

一階の展示は150円なりのこの程度。そして二階は…

小津安二郎松阪記念館

東京生まれ、それも深川出身。東京市深川区立明治尋常小学校(現・江東区立明治小学校)深川二丁目あたりなので、門前仲町にも近い。120年も前の話だが…

「子どもは環境のいい郷里で育てたい」という父の考えにより、9歳から19歳までの青春期を松阪で過ごしました。

当時は「飯南郡図書館」であった歴史民俗資料館へも幾度も通っていたことから、2階展示室を「小津安二郎松阪記念館」とし、彼のルーツから松阪での様子、映画との出会い、代用教員時代や生涯の友人との交流などを中心に展示を行っています。

小津安二郎松阪記念館
このくらいの広さ

深川で生まれて9歳に松阪に引っ越し、再び深川に戻って蒲田撮影所に勤めていたそうだ。実家の地元にも資料館があるようなので行ってみよう。

外に展示してあった鬼瓦

大正12年(1923)に建築された旧カネボウ綿糸松阪工場の原綿倉庫に大規模な改修を加えて再生し、市民ギャラリー・文化財収蔵庫として活用されています。
(松阪市より)

ここでは何もせず、このまま奥に進む。

展示室

展示室は続くがなにも展示していない。

本日最後、文化財センター(はにわ館)
松坂城跡から歩いて15分くらい。入館料100円。

常設展示はこれだけ。特別展はないのでこれだけ。

はにわというと、人形を思い出すが人形の展示はなく、家形などはじめてのものが多い。

そしてメインである舟形はにわ

ここだけ音声で説明が流れる。

図書コーナーに興味深い本があったので、しばらく読んであとにする。

外には模造品が展示。

ふと疑問に思った、はにわと土偶、なにが違うんだっけ?

答えは、時代と目的が違う。土偶は縄文時代、はにわは古墳時代。
具体的には縄文時代だから17000年前くらいから2500年前くらいだから紀元前。
はにわは、3~5世紀だから今から2000年から1700年前くらい。
土偶は今でいうアクセサリーや祈祷に使うもので、モデルはほとんど女性。安産や豊穣を祈願したのではないかといわれている。はにわは、同じものをたくさんつくり、古墳の副葬品として墓の中に入れた。人がたのはにわは、それまでは権力者がなくなると使いものも生き埋めにされたが、さすがにそれはかわいそうということで人形になったと読んだことがある。それも推測だが。

地元の中学生が組み立てたらしい。

今日は、本居宣長、小津安二郎、はにわについて見聞が広がった。

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