KL空港へ行き、そのままシンガポール経由で帰国の日。
シンガポールの出発は明日未明なので長い一日。
マレーシア首相の生家がホテルの隣だったのに、忘れて出発。Grabを使うと、そこで待機していたのか1分で来た。ケダ州立博物館へ。
アプリで現在位置がわかる(中途半端な翻訳)
RM6.18≒216円。日本では考えられない料金(白タクだが)
Muzium Negeri Kedah(ケダ州立博物館)
またも撮影禁止
日本兵がいた
説明文を翻訳、マレー語と英語少し訳文が違う
日本軍はマレー遠征の当初から準備と計画を立てていた。アロースターでは、K.シバという名前の実業家が日本のスパイになった。 1941 年 12 月 7 日、日本軍は東海岸に上陸しました。ケトゥンブク軍の動きはシンゴラに上陸した。 1941 年 12 月 8 日。松井孝郎将軍の指揮の下、この衝突はシンゴラを経由してアロースターに入った。第9歩兵旅団は戦車とメルラムの支援を受けてジトラへ移動した。 1941年12月10日の早朝、佐伯大佐率いる日本軍はブキッ・カユ・ヒタムとチャンルンの国境を攻撃し、なんとかアスンまで進軍し、グルカ族(イギリス傭兵)をジトラへ逃亡させた。 1941 年 12 月 12 日、川村三郎少将がジトラに到着しました。 1941 年 12 月 13 日、日本軍はアロースターを占領し、イギリス軍を砂漠へ撤退させました。翌日、日本軍は砂漠に到達し、パンジャーブ軍を攻撃した。 1941年12月15日、グルンの捕獲に成功し、イギリス軍はケダ州のペナンに撤退し、グナセルカンとして知られる大統領が任命された。日本スルトサービス(鉄器館)、軍事駐屯地、憲兵隊(軍事世論調査)、東光(闇のスパイ)などの組織が設立されました。日本軍がケダ全土を占領した後、1941年12月19日にスルタン・アブドゥル・ハミドは日本との協定に署名した。この協定によれば、ケダ州はスルタンに引き渡され、行政は日本が担当することになった。
日本軍は、1941年12月8日にマラヤに侵攻軍を送る前に十分な情報収集を行い、早い段階から準備を整えていた。アロースターでは、K. 柴というビジネスマンが日本軍のためにスパイ活動をしていたことで知られていた。1941年12月7日、日本軍は東海岸に到着し、第5師団はシンゴラに上陸した。松井隆郎将軍の指揮下にある日本軍はシンゴラを通ってアロースターに進軍し、第9歩兵旅団は戦車と砲兵を伴ってジトラに進軍した。1941年12月10日の朝、佐伯大佐の指揮下にある日本軍は、タール国境に近いブキット・カユ・ヒタムとチャンルーンを攻撃した。彼らはまた、アスンに向かって進軍していたグルカ兵をジトラまで撤退させた。 1941年12月12日、河村三郎少将がジトラに到着し、翌日、彼の部隊はアロールスターを占領し、イギリス軍をグルンへ逃亡させた。その後、彼らはグルンに移動し、そこに駐留していたパンジャブ軍を攻撃した。グルンは1941年12月15日に占領され、イギリス軍はピナン島へ逃亡した。占領中、日本軍はグナセルカンという名の大統領を任命し、州を統治させた。この期間中、日本軍の秘密諜報部 (鉄機監)、駐屯軍、憲兵隊 (憲兵隊)、秘密警察 (東公) が組織された。日本軍がケダ州を完全に制圧すると、日本軍はスルタン・アブドゥル・ハミドにすべての行政事項を日本軍に引き渡す協定に署名するよう強制し、国王陛下は引き続きスルタンの地位にあった。
内容はまあまあ。こんなところ(遠いという意味)まで日本が侵略していたとは。村山総理の時代にマレーシアの首相に謝罪したら、いつまでも謝罪する意味がわからない、未来を向こうと言われたらしい。いつまでもぐだぐだ言ってる隣の国とは大違い。
Lapangan Terbang Sultan Abdul Halim(スルタン・アブドゥ・ハリム空港)へ
何度読んでも覚えられない空港の名前。再びGrab様。3分くらいでやってきた。
RM8.24≒288円
ドライバーは60代後半くらいのおっちゃん。ムズィウムたのしかった?的なことを聞かれた。イマイチだったが、楽しかったと答える。
チャイナ?
出た、どこでも中国人。ノー、ジャパン。ソーリーと言われる。日本人はあまりいないだろうし。コタバルとアロースターでは日本人を見かけなかった。黙っているからすれ違っている可能性はないことはないが。
やっぱり80キロくらいで快走(シートベルト着用)途中、ここが王家と言われたような気がして調べたが、よくわからず。州連邦などの行政機関があった。
14:40発でBoradingが13:40、航空機が到着するのが14:05なのに乗れるわけがない。
どうしてこうするのか疑問。早く搭乗口に来いということなのだろうけど。
売店で購入。3RM≒105円、ナシレマらしい。
ココナッツで炊いたごはん、イワシの煮干しみたいなやつ、少し辛いサンバルというソース、玉子、その他は謎。本来はワンプレートで提供されるマレーシアの国民食。
ナシレマについての解説
https://services.osakagas.co.jp/portalc/contents-2/pc/asagohan/029.html
なるほど、食べている人が多かった。
折り返しがまた35分しかないので、乗れるのは10分前くらい。
LCCみたいなシート。
機内安全ビデオはサッカー選手登場
王様も感謝
クアラルンプールが近づいたのがわかる
さすがクアラルンプール空港は大混雑
時間はたっぷりあるが、早めに荷物を預けよう。カウンターで並びやっと順番が来ると、なにかわかりにくい英語で話している。わからないでいると、職員がスマートフォンで翻訳。
8時40分に乗ってきましたか?
前に乗ってきた便を聞いてるのか?なにを言っているのだろう。
何度もやりとりすると、8時40分の便を7時40分に変更してもいいかと。どうして謎な日本語になったのだろう。なぜ変更するのかもよくわからないが、シンガポール空港で長いほうがいいし。
ここでの航空券は、クアラルンプール→シンガポール→中部(名古屋)→沖縄(那覇)
荷物は中部で受取りたい。なぜかというと、クレジットカードの特典でスーツケースが1個無料で自宅に送れるから。沖縄まで行ってしまうと無駄に持ち歩くことになる。
中部で荷物を受け取りたいというと、意味がわからないのか通じないし、やっと通じたと思ったらなにやら面倒らしい。隣の女性(先輩なのだろう)が来て、乗り換えが3時間しかないから、急がないといけない、間に合わないかもしれないと。
そんなことあるわけないじゃん。関西空港から伊丹とか、成田から羽田に移動するわけでもないのに。日本の入出国はマレーシアのように行列ができませんよと言いたいくらい。
面倒だからなのだろう。親切で言っているわけではなさそう。中部から荷物を自宅に送りたいからと言ったらやっとわかってくれた。
変更と荷物のやりとりだけで30分以上かかった。落ち着かないので早く出国しようとすると、これまたすごい行列。
ひとり1分はかからないのだけれど、昔ながらの審査官がいてやり取りするタイプ。パスポートを渡すと指紋をとって顔を撮影するだけなのだが。
ここでも30分以上かかり、やっと出国。4000円近いマレーシア・リンギットを使おうとしたが、つまらないものしかない。
タバコはこういうパッケージのものしかシンガポールには持ち込めない。まるで医学書だよ。
C乗り場は離れていて、エアロトレインというのに乗るらしいが、改修中でバスで移動。
ここからシンガポール航空。シンガポールまでは約1時間。
シンガポール・チャンギ空港に到着したのが21時前。次の出発は1:20。
一日3本飛行機に乗るのは初めてかも。疲れてきた。
ターミナルを移動する必要がある。
このあと3時、4時とずっと続いて出てきた。ここまで審査はなく、このあと乗るときに保安検査を受ける。制限エリアから出ないのなら、入国出国の登録はいらない。
F60、果てしなく遠い。
3時間強ここで過ごしてやっと搭乗時間になる。
名古屋の修学旅行生が乗っていた。名古屋行きだからな。
今日の午後には沖縄。