マレーシア国立博物館と繊維博物館

夜中に騒いでいるおっさんがいて、ひどかった。団体客はいなかったが、完全に常軌を逸している。日本だったら完全に苦情を言っている状態。あとは、テレビの映りが非常に悪く、ずっとサッカーと自転車レースをやっているチャンネルと、格闘技と女子キックボクシングしか映らない。まったくおもしろくない。

国立博物館を検索すると、こんな道が出てくる。

昨日の博物館の方を回る?こんなはずはない。駅からまっすぐ抜ければ良さそう。KLセントラル駅に入り、まっすぐ進む。

調べたらなんと、日本の山崎パンだった。アジアやアメリカにも進出しているらしい。
海外出張や単身赴任などもあるんだろうなあ。

ヤマザキより

KTMやMRT、空港連絡鉄道などで改札が異なる。

明日はAlor Setarに行くが、ここから入場するのかなあ…Komuterじゃないんだけどなあ。

駅を抜けるようにどんどん歩くと、抜けられた。

政府の機関(いま知った)なので日曜日は人がいない。

ときどき日本語が現れる

高級マンションのようなところを抜けると、反対側に出られた。KLセントラル駅から10分かからないくらい。

NegaraはNationalと同じかな。国立博物館。入館料はRM5.00なので175円。

展示室が右と左に分かれる。

人類の歴史は日本の展示と変わらないだろうが、北京原人ではなさそう

いちいちGoogleレンズで翻訳しないとわからないので、正直面倒くさい。

11番は翻訳するとビンロウを楽しむセットだった。アジアで好まれている嗜好品で噛みたばこといわれるやつだ。石灰といっしょに口に入れて、くちゃくちゃしてぺっと出す。残った液が口から吸収されて、いい気持というかタバコと同じような効果があるらしい。台湾でレースクイーンのような女性が売っていたのを見たことがある。台湾では規制がされて、そのような女性が売っているのは地方だけになったらしい。

2011年には台湾の高雄で売っていたビンロウ店

観音菩薩
Rettung Avalokitesvara これは 1930 年にペラ州ビドールにあるアンギオ オランラット社の錫鉱山で発見され、青銅製で 8 本の腕があり、そのうちの 1 本が壊れているのが発見されました。年代測定によると、この像はマラヤのヒンズー教と仏教の文明の時代、西暦 7 年から 12 年の間に存在したと推定されています。ー教と仏教だった 7 世紀から 12 世紀の間に作られたものです。

このジオラマは、ジェッダ出身の宗教学者で彼の信奉者の一人であるサイイド・アブドゥル・アジズによるマラッカ統治者のイスラム教への改宗を描いています。この出来事は、マラッカが最終的に群島全体で名声を博したイスラム教普及の偉大な中心地となる第一歩となりました。

スラウェシ ロイヤル ダガー
 このケリスはインドネシアのスマトラ諸島産です。これは、ブギス、ランポン、ミナンカバウのコミュニティの間でスマトラ諸島の王の征服された植民地の支配者によって使用されました。短剣の鞘と頭部は金板で作られています。この短剣の先端は「パタ・トリガ」と呼ばれ、雲のモチーフや植物が彫られています。サロンは「Penghulu Bugis」と呼ばれます。大きさは長さ48cm、幅15cmです。側面には、アル・コーランの一節「ハスビアッラーフ・ワニマル・ワキル、ニマル・マウラ・ワニーマン・ナシル」の彫刻があり、これは「アッラーは私たちにとって助け手となるのに十分であり、アッラーは最高の守護者である」を意味します。困難に直面し、あらゆる悪から神に保護を求めるときのジクルとしてよく使用されます。

わかるようでよくわからない。興味がないから仕方がない。

ベルトタップ

このシスの場所には、キンマの容器であるイマ ブティル カンブールと、アマスでコーティングされたカシップが含まれています。つぼみの粉が覆われ、マンゴスチンの茂みのような形をしています。これらのコンブルは、ビンロウジュ、ガンビル、タバコ、コンギス、ライムからなるビンロウジュの調合物を満たすために使用されます。一方、ビンロウの容器は、ビンロウの葉をきちんと整然としたフェビリスに見せるためにサース葉を挿入するために使用されます。

ビンロウジュセット

このセットには、5 つの小さな容器、シリ (ビンロウの葉) 用の箱、金メッキのビンロウの実用はさみが含まれています。小さな容器のうち 2 つは蓋が付いており、マンゴスチンの形をしています。容器は、ビンロウの実、ギャンブラー、タバコ、クローブ、ライムなど、ビンロウを摂取するための材料を入れるのに使用されます。シリの箱は、ビンロウの葉を保管するためのもので、セット全体が整理整頓された状態になります。

上がマレー語、下が英語訳。

ペラ王の玉座(レプリカ)
セリ スルタン アン ペルタルバイラン 1938 年、陛下
 この王の玉座は、1918 年にスルタン イスカンダル シャー殿下 (第 30 代ペラ州スルタン) の設置時に使用されました。それ以来、1938 年にスルタン アブドゥル アジズ アルムスタシム ビラー シャー殿下の設置時に使用され、 1948年スルタン・ユスフ・イズディン・シャー殿下と1963年ペラ州クアラ・カンサールのイスカンダリア宮殿にてスルタン・イドリス・イスカンダル・アルムタワキル・アララヒ・シャー2世殿下。

ポルトガルが侵攻してきた

1511年から1641年までマラッカに居住していたポルトガル人は、マラッカ、ジョホール、アチェ、オランダの旧スルタン軍の攻撃に直面した。マラッカ軍はマラッカを制圧するためにマラッカのポルトガル軍を攻撃した。この攻撃において、マラッカ軍はジャワ州ジャパラ王パテ・ウヌスとウティ・ムティアラジャの義理の息子パテ・カディルの援助を得た。しかし失敗に直面する。スルタン・マフムードは、1516年と1518年にマラッカのポルトガル人を攻撃するためにハン・ナディムの指揮下に軍隊を派遣した。その間、スルタン・マフムードはポルトガル人を撃退するにあたってラジャ・インデラ・ギリ、ラジャ・シアク(アブドゥッラー王)、ラジャ・ベルアス、ラジャ・ハルンの援助を得た。しかし、スルタン・マフムードは1526年のビンタンへのポルトガル軍の進軍に抵抗できなかった。スルタン・マフムードは最終的にカンパールに撤退し、カンパールのスルタンに戴冠した。その2年後に彼は亡くなり、マルフム・カンパールとして知られていました。

悔い改めテルル

ポルトガル人との闘争​​はジョホール・スルタン国によって継続された。 1511年、スルタン・アラウディン・リアヤット・シャーはペラ州、パハン州、ジャパラ州から援助を得ました。陛下はマラッカのポルトガル軍に対する攻撃を開始するために、約200隻の船と5,000人の兵士を集めることに成功した。マラッカ市を数か月にわたって包囲した後でも、ストラン・アラウディンの軍隊は失敗し、それぞれの州に戻った。次の抵抗はスルタン・アリ・ジャラ・アブドゥル・ジャリル・シャーとスルタン・アブドゥル・ジャリル・シャー3世によって実行された。

マラッカのポルトガル人もアチェ軍の攻撃を受けた。この攻撃の目的には、マラッカを占領し、貿易を支配し、マラッカ海峡の政治総局を拡大することが含まれています。スルタン・アラウッディン・リアヤット・シャー・アル・カハル指揮下のアチェは、1537年、1547年、1568年、1582年にポルトガル人を攻撃した。スルタン・イスカンダル・マコタ・アラムの治世中(1629年)、アチェはポルトガル人への攻撃を開始したが失敗し、約19,000人のアチェ兵士が殺害された。

マレー人とは別に、オランダ人もマラッカでポルトガル人を攻撃しました。彼らはマラッカ市を支配し、マラッカ海峡で交易したいと考えています。 1602年、1603年、1606年、1607年、オランダ軍はマラッカを攻撃し包囲しました。 1641年になって初めて、ジョホール州政府の援助により、オランダ人はマラッカを占領することに成功しました。当時、スルタン・アブドゥル・ジャリル・シャー3世は、マラッカにおけるポルトガルの支配を終わらせるために、トゥン・アブドゥル・ジャミル提督率いる40隻の船と1,500人の兵士を派遣した。

1511年から1641年の間、ポルトガルによるマラッカ占領に対する抵抗は、マラッカ、ジョホール、アチェの前スルタンの艦隊とオランダからのものであった。これはマラッカの支配権を奪還しようとする試みであった。この攻撃の間、マラッカ艦隊はウット・ムティアラジャの義理の息子であるパテ・ウヌス、ラジャ・ジャパラ、ジャワ、パテ・カドトルによって指揮されたが、無駄に終わった。その結果、1516年と1518年に、スルタン・マフムードはハン・ナディムの指揮下で艦隊を派遣し、マラッカのポルトガルを攻撃した。同じ時期に、スルタン・マフムードはラジャ・インデラ・ギリ、ラジャ・スタック(ラジャ・アブドゥラ)、ラジャ・ベルアス、ラジャ・ハルンからも援助を受けた。彼らは1521年と1523年にポルトガルの攻撃からビンタン島を守ることに成功しました。1526年には、スルタン・マフムドはビンタン島で進撃するポルトガル艦隊を撃退しました。その後、スルタン・マフムドはカンパールに撤退し、カンパールのスルタンに即位しました。2年後、スルタン・マフムドは亡くなりました。王族としての地位に敬意を表して、彼はマルフム・カンパールと呼ばれました。

ポルトガル人との戦いはジョホール スルタン国によって続けられました。1551 年、ペラ、パハン、ジャパラの支援を受けたスルタン アラウディン リアヤット シャーは、約 200 隻の船と 5,000 人の兵士からなる艦隊を編成し、マラッカのポルトガル人を攻撃しました。数か月間マラッカ要塞を包囲することに成功しましたが、スルタン アラウディンの艦隊は要塞を占領できず、艦隊はそれぞれの州に散ってしまいました。ポルトガル領マラッカへの攻撃は、スルタン アリ ジャッラ アブドゥル ジャリル シャーとスルタン アブドゥル ジャリル シャー 3 世の指揮の下、再開されました。

マラッカのポルトガル人もアチェ人から攻撃を受けた。彼らの目的はマラッカを征服し、その貿易を支配し、マラッカ海峡沿いのアチェの政治的影響力を拡大することだった。スルタン・アラウディン・リアヤット・シャー・アル・カハルの指揮の下、アチェは1537年、1547年、1568年、1582年にポルトガルを攻撃した。スルタン・イスカンダル・マコタ・アラム(1620年)の統治下で、アチェはポルトガルへの攻撃を開始したが、約19,000人の軍隊を失い、敗北した。

マレー人だけでなく、オランダ人もポルトガルを攻撃した。オランダ人はマラッカ港を占領し、マラッカ海峡沿いの貿易を支配しようとした。オランダ艦隊は攻撃を開始し、1602年、1603年、1606年、1607年にマラッカを包囲した。しかし、オランダがマラッカを征服したのは、ジョホールの支援を受けた1641年になってからだった。このとき、スルタン・アブドゥル・ジャリル・シャー3世は、40隻の船と1,500人の兵士を率いて、ラカサマナ・トゥン・アブドゥル・ジャミルを派遣し、ポルトガルの支配を終わらせた。

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ココナッツ
ココヤシ(Cocos nucifera L.)は、多種多様な用途を持つ木です。マレーシアでは、栽培面積で見ると、ココナッツは油ヤシ、ゴム、米に次ぐ第 4 位の産業作物です。また、最も古い農業産業でもあります。ドイツの貿易商 R. エングラーは、1896 年にネグリ・スンビラン州ポート・ディクソンで大規模なココナッツ栽培を開始しました。
 ココナッツはマレーシアの農村住民の社会経済的地位において重要な役割を果たしています。ココナッツ生産の約 63% は国内消費用で、37% は輸出および工業加工用です。ココナッツ製品の国内需要は、生ココナッツ、若いココナッツ、ココナッツ オイル、加工クリーム パウダーです。輸出に関しては、乾燥ココナッツ、ココナッツ ミルク パウダー、活性炭などのココナッツの最終製品があります。栽培されている主な品種は、マラヤン トール (92.2%)、ハイブリッド MATAG (4.3%)、MAWA (1.7%)、芳香性タイプ、パンダン (1.7%)、マラヤン ドワーフ (0.2%) です。
 マレーシアでは、ココナッツ加工部門が直面する課題は、原材料の供給不足、土壌の不毛、不十分な農業慣行と農場管理など繰り返し発生しています。しかし、マレーシア政府は、農業・農業関連産業省を通じて、国内市場の課題と需要を満たすために、さまざまな植え替え・再生プログラムや再生計画を実施しています。そして、国際市場もその課題と需要に対応しています。

日本兵SAMURAI 登場

サムライソード
 このサムライ刀は、第一次世界大戦(1941-45)中の日本軍の騎士道精神と勇敢さを象徴しています。すべての日本軍将校にはサムライ刀が支給されました。この刀は斬首に使われたため、地元の人々から恐れられていました。

独立への道

 ムルデカという言葉の聖なる詠唱!自由!自由! 1957 年 8 月 31 日は、自由を獲得するための長い闘いを経て、マラヤの人々にとって最も歴史的な瞬間となりました。マラヤにおける一連の人々の闘いは、植民地主義者への抵抗から始まり、ナショナリズム精神の台頭、続いて政府の政策に対する批判と抗議が続き、最終的に交渉のテーブルに着くまで続きます。
 この国の歴史において苦い記憶となった1948年から1960年の非常事態を含め、いくつかの重要な出来事が起きた。ナムリのすべての人々が現在平和な生活を享受できるのは、イギリスの植民地主義から国を戦い、解放し、平和的に統治し続けた当時のさまざまな人種や政党の指導者の知恵のおかげです。マレーシアは今日も誇らしい経済発展を続けるとともに、社会と人種の調和が保たれています。
 1957 年 8 月 31 日の「独立!独立!独立」という力強い叫びは、マラヤの人々にとって、独立を求める長い闘争の後に起きた最も歴史的な瞬間となりました。マラヤの人々の闘争は、ナショナリズムの台頭に始まり、批判や抗議の表明が続き、その後の戦争の一因となり、最終的に交渉のテーブルに着くまで、長い闘争でした。
 1948年から1960年の間には、いくつかの重要な出来事がありました。その一つが、国の歴史上困難な時期であった非常事態でした。しかし、当時の様々な民族や政党の指導者の先見の明のおかげで、人々は平和で豊かな時代を享受しています。彼らは、イギリスの植民地支配から国を解放することに奮闘し、成功し、その後も平和的に国を統治してきました。マレーシアは今日でも、社会的、共同体的な絆を保ちながら、有望な経済発展を続けています。
 調和はそのままです。

マラヤ連合
 1945年に第二次世界大戦で日本が降伏した後、スリースターズとしても知られるゲリラ運動であるマラヤ人民抗日軍(MPAJA)は、英国軍政庁が到着するまでの14日間、地域社会に混乱を引き起こした。 BMA は 1946 年 3 月に解散し、その後ブリリッシュはマラヤ連合計画を導入しました。
 マラヤ連合計画は基本的にマラヤの地位を保護領から英国直轄植民地に変更した。連邦マレー諸国、非連邦マレー諸国、およびペナンとマラッカの 2 つの海峡居留地は統合され、イングランド国王によって任命された英国総督によって管理されました。マレーの統治者は主権を失い、イスラム教とマレーの慣習の問題についてのみ権限を持ち、法律を制定し行政任務を遂行するために招待集会評議会と執行評議会が設立されました。ジュソル原則に基づく非マレー人に対する平等な市民権は、マラヤ連合の提案です。
 マレー人は、マレー王の主権と権力が廃止され、あまりにもリベラルな自由主義によって非マレー人に市民権が与えられたことを受けて、マラヤ連合に反対した。マレー人の抵抗は新聞やマレー人協会での呼びかけを通じて行われ、その結果、1946年3月1日から4日までダト・オン・ジャーファルが議長を務める全マレー・マレー会議が設立された。マレー人は、1946年4月1日にクアラルンプールで行われたマラヤ連合宣言式とエドワード・ジェント卿のマラヤ連合総督任命を軽蔑した。反マラヤ連合運動の結果、英国はマラヤを主導する政権形態の創設を検討することになった。自治に向けて。

SANYO製ラジオ

成功を掴んだこの独立グループは帰国し、1956 年 2 月 19 日にシンガポールに到着しました。翌日、彼らは国の独立日を発表するためにマラッカからパダン バンダル ヒリル (ヒーローズ フィールド) へ向かいました。沿道には約10万人が集まり、道路の左右に並び「ムルデカ」と声援を送った。その幸せな雰囲気の真っ只中、トゥンクはマラヤ連邦が1957年8月31日に独立を達成するという合意がロンドンで達したと発表した。

統一マレー国民組織(UMNO)、マラヤ華人協会(MCA)、マラヤインド人会議(MIC)の間で形成された同盟は、マラヤの3つの主要な人種グループ間の良好な関係の基礎を築きました。そして、1955年の総選挙での同盟党の勝利は、国民からの確固たる支持を確保したことを示しました。

4年以内に国の独立を獲得するという選挙中の党のマニフェストを実行するため、首相のトゥンク・アブドゥル・ラーマンは1956年1月1日に代表団を率いてロンドンへ向かった。

3週間の交渉の後、ロンドンのランカスターハウスでトゥンクと植民地大臣のアラン・レノックス・ボイド卿の間で独立協定が最終的に調印されました。リード委員会として知られる独立委員会が新憲法の草案作成のために設置されました。

代表団は 1956 年 2 月 19 日にシンガポールに戻り、翌朝マラッカに向けて出発し、パダン バンダル ヒリル (パダン パラワン) で国の独立記念日を宣言しました。10 万人を超える人々が沿道に並び、歓喜の声を上げ、「ムルデカ」と叫びました。この歓喜の雰囲気の中で、トゥンクはマラヤ連邦が 1957 年 8 月 31 日に独立を獲得するだろうと発表しました。

国旗はこれに決まった

merdeka(ムルデカ…独立)を叫ぶ

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各州民族衣装

独立の記念品

侵略、戦争、独立というマレーシアの歴史がよくわかった。

出口は裏を指定される。売店があったり、少し展示物もある。

ミニバス
 クアラルンプール ミニバス サービスまたはミニバスは、マレーシアで最も古く、最も人気のある公共バス輸送手段の 1 つで、クアラルンプールとクランバレー地域をカバーしています。バスはピンク色に塗装され、側面に白いストライプが入っています。これらのバスはサイズが小さいため、20 ~ 30 人程度しか乗客を乗せることができません。バスは手数料システムに基づいて運行されており、サービス オペレーターは総運賃徴収額に応じて報酬を受け取ります。Muzium Negara に展示されているミニバスは、パンタイ ダラム – ブリックフィールズ – クラン バス停 – コタ ラヤ – チョウ キット – グローブ ルートで運行されています。このミニバスも、元々は Akar Holdings Sdn Bhd が所有していました。

ミニバスの運行は、運輸省の管理下で 1975 年 9 月 23 日に開始されました。当時、バスはそれぞれのバスの色 (青白、黄白、赤白、紫白、緑白) に従ってさまざまなルートを運行していました。ミニバスは、約 60 の異なるルートを運行する責任がありました。1990 年に、運輸副大臣 Datuk Paduka Rahmah Osman が、ミニバスの標準色をピンクと白に設定しました。ミニバスの運行は 1998 年 7 月 1 日に中止され、Intrakota バスの運行に置き換えられました。2005 年に、RapidKL バスが運行を引き継ぎ、現在に至っています。

マレーシアというよく知らない国を深く知ることができた。MRTに乗って繊維博物館へ向かう。

盛況のマーケット

にせものなんだろうなあ

国立繊維博物館

1905年建設の旧鉄道局の建物

入館料はRM5≒175円

装飾品の展示

詳しい説明があるがなにしろ英語だから…
イスラム美術館よりは楽しめたが、やはりあまり興味がない分野だ。
外は35℃近く、さらにスコールが降ったみたい。涼しいところで座って休んだと思えば大満足。
外に顔出し看板があったので、久しぶりに顔を出す。

博物館をあとに、ムルデカ広場に行く

Bangunan Sultan Abdul Samad(スルタン・アブドゥル・サマド・ビル)

イギリス植民地時代の政府が置かれた場所。向かいに独立を宣言したムルデカ広場がある。
なにかのイベントの後らしく、後片付けのトラックやフォークリフトが邪魔だった。世界中から観光客が来ている感じ。

旧チャート銀行

駅に行くついでにCentral Marketへ

市場ではなくおしゃれなお店が並ぶ。横浜の赤レンガ倉庫みたい。
駅に着くと券売機には行列。日曜日だから家族連れが多い。なんとかカード(ICカード)を持っている人が少ない。お金がつまってしまった券売機とか、他の場所では2台しかないのに1台使用中止とか、日本の駅員とだいぶ違う。券売機も落ち着けば難しくないが、行列ができているので焦る。
人のいない駅で撮影したもの。

英語にもできる(マレー語と英語にしか出来ない)目的地の駅の路線を選ぶ。通しで買える。

自分の降りる駅を選ぶのが大変。押すと金額が表示される。ここで問題が起こることがある。画面に紙幣が表示されて、使えない紙幣にはバツがついている。昔の自販機にあった釣り銭切れというやつと同じ。この駅で酷かったのは、使えるのはRM1とRM5だけ。RM10紙幣からバツがついている。並んで順番が来て買えなかった人もいるし、後ろの男性がお金を出してあげてサンキューベリマッチと言っているのもみた。昭和の国鉄より劣ってる。運賃は距離にもよるが、RM2≒70円くらいでけっこう乗れる。

車内はすごい涼しい、寒いくらい。一駅でKLセントラルに到着。

KLセントラル駅で発見!

現地では、ドンドンドンキと言われているらしい。いつものテーマ曲のマレー語版が流れていた。

日本食フードコートと、ほぼ日本製品。

付け合せの野菜もないみたい
800円超えなのでけっこうなお値段

日本のものを買うほど愚かなことはないので、スーパーへ行く

TALAPIAは日本にも輸入されていたティラピアかも。チカダイという名前でスーパーでお刺身をよく買って食べた。養殖タイの価格が下がったので、日本では養殖されず、逃げ出したり放流した魚が温泉が流れる温かい川や、沖縄で繁殖している。

スーパーでは果物など買って、メインはもう一度ホテルのとなりの南インド料理店に買うことにしよう。メニューはGoogleMapなどにアップしてあるもので熟慮。

このおっちゃんのTシャツにYOKOHAMAと描いてあったので、呼び止めてアイリブインヨコハマと言ったら、愛想笑いして終わった。通じたのだろうか。英語力は完璧なはずだ。

日本のインド料理店で高いもの、食べてみたいものを注文しようと。
ロティはパンのようなもの全般。
ナンはイーストで発酵させて石窯で焼く。高級でインドではあまりない。
チャパティは全粒粉でつくり、発酵させず鉄板で焼く。

タンドリーロティ、玉子の天ぷら(メニュー名失念)、チーズナン、シシカバブ(石窯で焼くソーセージのようなやつ)、マトンカレーを注文。

一度ホテルに帰り荷物を置いてくる。

シシカバブ
玉子の天ぷら

わからないのがこれ

酸っぱ辛いソースのようなもの。3つあるが数は適当なのか。よくわからず最後は飲み干す。

おそらくタンドリーロティについてきた、ダル?(豆のカレー)

うしろにあまりおいしくないトマト、100円しなかったからな

ビニール袋で提供なので、ホテルのコーヒーカップに入れる。

日本ではいちばん高いマトンカレー

今日はロティでカレーが食べられるが、チーズナンは想像以上に脂っぽい。チーズがおいしくないのか、ギー(溶かしバターみたいなやつ)なのか油のせいのか、ちょっとうんざり。

自宅で作ったカレーや日本のカレーライスは3日くらい続いても余裕だが、このスパイスカレーはおいしいのなぜか飽きる。飽きるというよりスパイスにうんざりするのかもしれない。

果物もたくさん

これで半分以下
パパイヤ

今日は静かに休めるだろうか…

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